FC2ブログ
犬を眺めて人生を考えるおじさんブログ

高僧伝3 読み終える。

高僧伝は中国の唐以前の有名なお坊さんの伝記です。信仰を守るために大変危険なめにあっています。


銃病原菌鉄 下

読み終えました。内容は面白いのですが、読みにくいのです。歴史は実験室で実験ができない学問であると言っています。

18世紀の九州の中津の学問。田舎と言えども学問をしていた人がいたのですね。


ミヒェル先生からいただいた本を読む。田舎の学問でもすごかったのです。現代ならどこでも学問ができそうです。

銃病原菌鉄 上

有名な本ですが、読みにくいです。多分原文の英語がわかりにくいのだと思います。農業の始まりやネイティブアメリカンの悲劇を知ることができます。


ゴルゴ13未病後編


ゴルゴ13に鍼灸のストーリーが載っています。この内容は案外世界の鍼灸学会のことを知らないとかけない劇画です。世界の鍼灸は中国が支配しようとする陰謀があるのです。

密教教典

大日経、理趣経です。解釈もついていますが、やはり難しいです。空海は1000年も前にこれらを理解していたのですね。それもサンスクリットですよね。
恵果はすごい先生だったと空海は言っていますが、空海がえらかったから恵果がすごく見えたのかも知れないのです。先生は普通の人でも弟子がえらかったら、先生が偉く見えてしまうことがあるのですと指摘も正しい気がします。


生命の海 空海

ようやく9冊めです。空海の思想は極まりがないほど広く深いのです。スーパーマンなのです。先に『密教経典』の譯注を読み始めたのだが、これがまた難しい。『大日経』と『理趣経』なのである。その解釈も翻訳されているのだがこれまた難しい。『理趣経』を少しでも分かりたいと思っているのだが、これも『理趣釈』を読んでもわからない。
空海の真言学は、多方面なのでどれから行ってもいいのだが、これが難しいのです。僕達には四国88カ所の巡礼や高野詣りぐらいでいいのかも知れません。仏教が死の思想から生の思想にもう一度取り戻せるのは、空海の密教であると思います。そこには現実を見つめる目と多様性に対応できる思想があるのです。まさしく曼荼羅の世界なのです。仏教は葬式だけのものではないのです。今を生きる宗教でなければならないのです。


柳宗悦

柳宗悦の『茶と美』を読む。「喜左衛門井戸」の茶碗を見て、後の茶の美に対する堕落を指摘しています。茶のための仰々しい茶碗はうんざりです。いまなら佐川美術館の楽茶碗です。愚にもつかないものに、建物まで作って飾るのは全く見る目がないのです。この本を読ませたいものです。
この間も述べましたが、柳宗悦は早くも戦前に備前焼を評して、「有名な伊部焼のごときはすでに不治の病いに入って今はほとんど見るべき品がない」と言っています。陶芸家と言うものが、芸術家となってはいけないのです。工芸家なのですから。
ただ民芸運動の中で柳宗悦は浜田庄司や河井寛次郎、富本憲吉を評価すべきではなかったと思います。彼らも芸術家になってしまいましたし、彼らのまがいものが今日の民芸作家になって芸術家気取りの原因なのですから。棟方志功や芹沢圭介は好きなのですが、富本や浜田はあまり好きではありません。



『不安と欣求「中国浄土」』

やっと読み終わった。法然親鸞の思想の原点が雲鸞、道しゃく、善導にあることをわかりやすく書かれています。ここでも羅什の仏典翻訳が重要な意味を持つことが指摘されています。法然親鸞のなかには善導の『観経疏』が大きく影響を及ぼしているのです。法然はこの書を読んで、立ちどころに余行を捨てて念仏に帰すと述べています。この本を読んで現代の浄土門の諸宗はどこか間違っている気がする。



茶の本

大晦日に読んだ。昔、読んだはずなのですが完全に忘れています。また新しい感動です。


無の思想

やっとこの本を読み終える。中国禅の思想です。難しいですが大変面白い内容でした。禅がどうして仏教なのかがわかります。中国での仏教の展開が禅なのですね。それにしても今の禅は頼りないです。



趙州無学という公案(禅宗での問答による課題)

犬にも仏性(仏になる性質、種)があるかという公案である。趙州は無いと答えている。この趙州とは趙州従諗(778-897)のことである。犬に仏性あるかどうかを愛犬游游と一緒に寝ながら最近ずうっとこの公案を考えている。もしすべての生物が輪廻転生を繰り返すのであれば、犬にも当然仏性がなければならない。なぜなら来世には人間なり、畜生なり、はたまた虫にでも生まれるのであり、時にはたゆまない精進によって仏になるかも知れないのである。そのためには仏になるための仏性則ち仏種(仏になるための種)がなければならない。『涅槃経』には「悉有仏性」と言っている。全てのものが仏性を持ってるということである。輪廻転生を繰り返して最後には仏になれるのであれば、家の游游にも仏性があることになる。もし仏性があれば当然犬といえども、合掌するぐらいの信仰心がなければならないはずであるが、でも犬が佛のために合掌している姿などは見たこともない。ということになると、犬には仏性が無いのである。自分の犬を見ていると犬には感情があり、喜びも悲しみも怒りもあることがわかる。そこでは動物としてそう人間と隔たりがあるとも思われない。
結局のこと輪廻転生などはないのである。最近、前世ものが流行っている。前世はルーマニアの貴族であったとか、ロシアのお嬢様であったとかの説である。これもおかしい。若し前世があるなら、なぜ犬であったり、鳥であったり、虫やその他の生物であったという人はいないかだれも疑問に思っていない。少なくとも二〇世紀以降の人口爆発はそれ以前に生存したすべての人類より多いのであるから、人間の霊魂の数においても、前世の人の魂がすべてこの世に存在しても、まだまだ魂の不足が起こるはずである。70億を超えた人類の中には、少なともある人々は人間以外の魂でなければならない。
そこで来世はあるのかということになるが、そんなものは無い。来世にはもう一度結ばれたいとかのたまうのが恋愛ドラマの筋書きであるが、そんなものは無いのである。ぼくは結局この世しか無いと思う。そのこの世は犬に仏性がなければ人間にもないのである。仏になる種など必要ではない。僕達はすでに仏が体に宿っているからである。極端にいえば自らが仏そのものである。魂はあるだろう。しかしその魂は輪廻転生することもなければ、過去未来につながるものではないと思う。こんなことを述べると唯物論者に思われるかも知れないが、けっしてそのような人間ではない。唯物論、唯心論という区分けが間違っているのである。そのことに気づかないで、まだこの枠組で世界を規定する人がいるのは、恐ろしいことである。
仏の本覚を知ると、仏であるを自分を信じることができる。自分の心のなかを内観してみると自分は仏以外のなにものでもないということがわかる。自分は仏であっても自分自身はそれ以前と何ら変わることなく、自然の姿にすぎない。ただ安心(アンジン)を得られるだけである。
もう一度犬に戻ってみると、犬にとって未来があろうがなかろうが、何ら問題にはならないのである。犬が自分の前世がどこどこの皇室の飼い犬だったとかの物語はたぶん話題にはなっていないのだろう。犬にとってこの公案自体が無意味なものである。もっといえばあっても無くても良いものであり、無に帰するものでしかない。





伝統鍼灸
111024_1028~0001
今、日本で伝統鍼灸の再検討が起こっている。私達が伝統を受け継ぐということはどうゆうことなのか。再検討がされてるのです。

絶対の真理天台

この本は天台教学をわかりやすく解説しています。でも難しいです。
インドの法華經が中国に伝わり天台大師智によって大成された思想が天台教学です。この思想は日本の比叡山にもたらされて、日本の仏教思想を決定づけました。最澄がこの思想を選んだのは多分智の法華玄義によるものだったのでしょうか。摩訶止観には智の実践仏教が述べられています。久しぶりに摩訶止観も読み返すとそこには中国思想と仏教思想の統合が図られています。特に僕は彼の健康観に注意を払っています。五時の教判などは難しくて歯が立ちません。天台思想が日本に伝わって成立した天台本覚思想について、さらに興味津々です。
111024_1211~0001
111024_1212~0001
これらの『摩訶止観』は昭和46年の版だから、多分47年か48年頃に買ったと思われる。まだ岩波文庫が★の時代です。多分★が50円だから★4つで200円だったのだろう。また読みだすとほとんどすべて忘れている。あかんです。


トンちゃん一座がゆく



ケアリングクラウン活動記。素晴らしい活動をされています。


<ミッテゴラン・ランキング>☆☆

高野聖

この名著を読み終えた。この本を読むと、法然上人や親鸞聖人の出現が突然のものでないことを明らかにしています。中世には高野山が浄土思想一色となり一遍の時宗聖が活躍するさまを知ることができます。特に東大寺大勧進の俊乗房重源の働きは、むかし仏教史で習った彼の伝記と大きく異なっていて、面白かったです。彼がいかにフェイクな人であったか、それを知るだけでも面白いのです。やはりこの書は名著だと思う。この本が出版された時に、仏教史の研究家から反応が薄かったということも、教学しかしらない現代の仏教史研究者の片手落ちを図らずしも明らかにしているのです。
先の書評のために読んだ本が余りにもつまらなかったので、読み応えがありました。

<ミッテゴラン・ランキング>☆☆☆
Copyright © 游游おじさん. all rights reserved.