犬を眺めて人生を考えるおじさんブログ

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神居古潭石
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空知川石、親戚の家に行って庭にころげていた石をもらってきた。雷光が模様になっているので気に入った。当然無料だった。

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神居古潭石。これは旭川の石屋で買ったもの。

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神居古潭石。これも買ったもの。


石の芸術
石というのは不思議なものである。なにげない石が意味をもち、人の心に訴えてくるのである。人から見ればただの石であるが、なにか石に愛着を持ってみるとそこのえも言われぬ不思議な感情が込み上げてきて、一緒に連れて帰ってほしいと訴えるのである。まさしく石と感応するのである。
そもそも石に興味を持ったのは、ある患者宅に往診に行って、素敵な石を見たことから始まる。この石は本当に何げない石でありながら、心に訴えるものがあった。いつも往診の度に良い石だ良い石だと唱えていると、ある日患者がそんなに気に入ったらもって帰っていいよといったので、すぐに貰って帰ってきた。こんなに嬉しいことはなかった。
兵庫の山奥に棲む友だちの家を訪ねたときであった。彼の家の応接間に石が一個飾ってあった。この石もなかなかの石で、彼がこのような趣味を持ちあわせているとは思わなかったので、どうしたのかというと、そもそもは奥さんのお父さんの持ち物であったらしい。奥さんによれば、彼女のお父さんは石の蒐集家でそれなりに多くの石をもっておられたとかと話されていた。その中の一番に良い石がこれであったらしい。銘を聞くと無いというので、勝手に僕が松島という題を付けてあげた。家に帰って、この石に対する思いが強くなり、友人宅を尋ねた漢文を作ってこの松島を褒め讃えた。
 夢游松島
赤日松門醉夢中
午隱深院送涼風
睡濃多少鐘音響
抱石游仙似玉宮
 題□□大兄之奇嵒
  愚弟 □□□□
平成丙子歳九月八日
結局この松島もある日、僕の手に帰することになった。彼にはこのような趣味もなく、僕なら良いだろうと言うことで奥さんが同意されて、突然彼が思い石をぶら下げて京都まで持ってきてくれたのである。
その後石を見るたびに興味が増えて、とうとう石を集めだすことになった。まったくの初心者だから本を読んだりインターネットでしらべたりすると石の芸術は奥深いものであることがわかった。
石の興味はもっと前から始まっていたのかもしれない。随分前になるがいつだったか名古屋に研究会があったときに、熱田神宮に出かけた。そのとき神宮の会館で盆栽と水石の展覧会が開かれていた。何げなくそこを覗くと、たくさんの人がわいわいがやがやと石を愛でている。とある石をながめていると小父さんがやってきて説明をしてくれた。そして色々と石の見方や基本的な知識を話してくれた。その後で徳川美術館に行ったところ、日本一の名石、「夢の浮橋」があった。この石は日本で一番の石と言うことになっているらしいのだが、見た所なんの変哲もない黒石で、なぜ名石なのかわからなかった。また見る機会があったが、やはりなぜ名石であるのかわからなかった。
石は見立と言うことが大切である。鉱物としての石が、なにかに見たてられることによって石が意思を持つ。天然にできた造形が、人間の印象によってあるものとして見たてられそこに意味を見出すのである。その見立は具象でなければならないと言うことはない。まったく意味を含まない美であっても良いわけである。その思想は「色即是空」「空即是色」である。


神居古潭石
一昨年妻の里に帰ったとき、味噌ラーメンで有名なよしのの本店でラーメンを食べた。このラーメンの味は有名なほど美味くないと言う印象しかないが、そのときこのラーメン屋の前に石屋があった。ちょっと石屋に出かけると婆さんしかいなくて店内を見ることができなかった。しかし表の神居古潭石の庭石はすごく良くて、またくるぞと思って帰った。
そして今回二年ぶりに、この店を目ざして出かけると、主人がいて店内を見せて貰った。神居古潭石は思いのほか少なくて、いく点かがあってその中の二点が気に入った。
神居古潭石の入れ込みは、先に美瑛の方にさくらんぼ狩りに行ったとき、帰りに神居古潭に立ちよった。そこで神居古潭の流れを見て石の素晴らしさに感歎したものだった。お土産物屋で神居古潭石が倉庫の奥に列べられていた。そして売店のおばさんにこの石はいくらだというと売り物でないという。今は神居古潭石は取ってはいけないので、売れないとかいうのである。しかしそれにしても売り物らしく列べてあり、話の序でにいくらか聞くと十万以上の値を言った。そして買わなさそうにすると、もう見ないでくれといってスダレをさげてしまった。
そこでなんとかして神居古潭石を手に入れたいという思いが強くなり、今回の購入となった。
石如きに金を出すというのも辛いものがあるが、どうしてもほしかったので二点のうち一つでも買いたいとおもって家内と相談すると二つとも買いなあ、という。家内は値段を値切っていったが、店主は同意しない。結局言い値と売り値の中間で落ちついた。これが上の神居古潭石である。一つは水の流れのようにみえ、はたまた人の顔にもみえる平らな石である。もうひとつは、僕には蚕にみえる石である。ゆっくりと養石して良い色にするつもりである。石を育てるという養石は、人生を悠久にまで導くものかもしれない。そこには茶壺を育てる養壺という工夫茶と共通する思考が存在する。
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